春に咲く花の色

 はらはらと、桜の花びらが深夜のしんとした空に音もなく舞っている。散る我が身を惜しむように、もしくは誇るように。信号を待つあいだ、エアバイクの上でカインはそれに見惚れていた。千年樹を抱えるこの街の住人にとって桜はもともと特別な花だけれど、カインにはもうひとつ忘れられない思い出ができていた。この街の秘密を暴いた夜。あの夜も桜は満開だった。感傷に浸るタイプではないが、こんな夜はあの大冒険とそれに関わった友人たちを思い出す。
 エアバイクをアパート所定の駐車場に停めると、なるべく音を立てないように階段を上がる。最低限の防音対策はされているとはいえ、あくまで安アパートなので、万が一にも他の部屋の住民の安眠を妨害することがあってはいけない。こんな時間の帰宅になったのはこの街の平和を守っていたからだが、そんなことは騒音問題には考慮してもらえない。時計の短針はとうにてっぺんを越えていた。
 ルームキーを通してドアを開くと、玄関に見知った靴があることに気付く。同時にリビングルームから光が零れていることにも。合鍵を渡している相手などいないし、靴に気付かなければ泥棒を疑うところだった。だけど、まさか。

「遅い」

 我が物顔でソファでくつろいでいた銀灰髪の青年──オーエンは、カインがリビングに入ってきた瞬間にそう言った。さぞ不満であると、この部屋の主に伝えるために、頬まで膨らませてみせる。見た目はカインとそう変わらない年頃に見えるのに、彼の仕草はその多くがずっと幼い。もっとも、カインは驚きのあまり、そんな仕草を気にも留めていなかったけれど。

「オーエン!? 帰ってきてたのか?」
「うん。7ヶ月と23日ぶりだね」

 あの夜からほとんど一年が経っていた。しばらくはカインと遊んだり晶と遊んだりクロエやミスラと遊んだりしていたオーエンは、ある日ふらっと街を出ていってそれきりだった。本人が言っていた通り、本当に自由だとカインは苦笑したものだ。とはいえ、彼が手にしたのはあくまで制限付きの自由であるから、フィガロには定期的に連絡を送っているらしいが、カインのところには全くだった。そう回想するカインの心を読んだように、オーエンは悪戯っぽく笑ってみせた。

「この街に帰ってきて一番に会いに来た。それなのにいないんだもの」

 その言葉を聞きながら、初めてオーエンと出会った夜を思い返す。ひとところにとどまることを知らない彼は、あの日も今日も、まるで春の夜にしか出会えない存在のようだ。

「人間は寿命も短いし、あんまり会わないと死んでそう。とくに君は……そのうち勘違いさせた相手に刺されたり、目をえぐられたり、犬の餌にされたりしそうだから」
「いや、俺は警察官なんだからさ、せめて殉職を心配してくれよ……」

 カインが部屋着に着替えてリビングに戻ると、オーエンはそんななんとも言い難い理由を教えてくれた。オーエンの想像の中でカインの交友関係はどうなっているのだろうか。職務においては犯人を取り押さえる際や要人の護衛など、刺されてもおかしくないような危険な現場はあったが、目をえぐるといった猟奇的な事件は近年聞いていないし、餌を必要とする本物の犬はこの街では貴重だ。
 それにしてもオーエンは、つい十数分前が嘘のようにやけに機嫌が良かった。浮ついていると表したほうが正しいかもしれない。カインの前でだけ、オーエンはいつもより饒舌になる。親愛と、それから期待と不安が入り混じったような表情と一緒に。なぜ自分の前だけなのか、その理由を理解しているカインは複雑そうに視線を逸らす。このあとまた不毛な言い合いになることが、なんとなくわかってしまったからだ。

「だから会いにきた。……うれしい?」

 ソファの上で、オーエンがぐいっと距離を詰めてくる。その病的に白い頬は今は桜色に染まり、薄紅色の瞳はきらきらと輝いて、夢と希望に満ちている。カインは心の中で助けてくれ!と願ったが、悲しいかな、彼を助けてくれるおまわりさんはおらず、叶うことはない。

「どう? 『久しぶり』に会ったら『特別』になった?」

オーエンは、カインの特別になりたい。いや、すでになると決めているのだ。

‐‐‐

「……オーエンが会いに来てくれてうれしいよ。当たり前だろ?」

 予想通りの展開に、カインはなんとか自然にオーエンと距離を取ろうと試みるが、開いたぶんはすぐに詰められてしまう。いつものゆったりとした上着を脱いだオーエンの身体は細い。スイーツ以外もしっかり食べているか心配になってから、彼がアシストロイドであることを思い出した。最初はちゃんと線引きできていたはずなのに、オーエンの人間となんら変わらない──多少わがままで自由奔放にすぎるが──感情表現を見ていると、錯覚する瞬間が増えていく。

「だけどな。目覚めたばかりの子どもに手を出す……いや出される警察官はまずいだろ……」

 だからこれも錯覚しているだけかもしれない。アシストロイドに未成年という概念はない。ないけれど、カインが二十数年をかけて培った倫理観はたしかに待ての信号を出している。
 そもそも、オーエンの『カインの特別になりたい』という願望は、最初はもっと漠然としていた。親友でも、家族でもよかったはずだった。それに今の形を与えたのはブラッドリーだ。署までカインを迎えに来て、スイーツショップに連れていけとせがむオーエンを見て、あの署長は「こりゃ恋人ができるより面倒じゃねえか」とからかったのだ。そう言われて、オーエンはほんの少しのあいだ動きを止めた。世界最高のアシストロイドが、その刹那にどんな演算をしたのかはわからない。けれど、再びその瞳が開かれた時、カインを見つめるオーエンの瞳には今までと違う色があった。
 そこからのオーエンは積極的だった。カインへの恋心を隠そうともせず、カインにも自身と同じものを求めた。それだけならまだよかったかもしれない。しかし、神にも等しいアシストロイドの愛情表現は、なんというか即物的だった。まず手をつなぎ、そしてキス。さらには……と、まるで工場のライン作業のようにトントン拍子に事を進めていこうとしたのだ。情緒もなにもまるでない。カインは状況が飲み込めないまま、手をつながれ、キスされそうになったところで、持ち前の反射神経でなんとか避けた。オーエンにはなぜ避けるのかと怒られたが、カインはキスやそれ以上のことをするために、相手との恋愛を楽しみながら段階を踏むことを必要とする。ごくごく自然な嗜好だ。ついでに言うと、ここは警察署の入口で公衆の場だ。そんな場所で街の治安を守るおまわりさんがキスするわけにはいかない。
 その後しばらくオーエンは頻繁にカインに会いに来ては、同じ問答を繰り返した。カインとしては、キスや性交渉をするかしないかではなく、まずお互いのことが好きかどうか、それは恋愛感情か違うのか、交際したいか否かから話し合うべきだと思うし、それ以前に実際に生きた時間も情緒も幼さの抜けないオーエンと恋愛関係になることに、倫理的に抵抗を感じていた。だからふたりのやりとりは平行線を辿って、しかしある日突然、オーエンが街を出ていったことで中断していた。

「誰がガキだって。僕はおまえより強いし知識もある。背丈だって変わらない」
「そういうの、人間の感覚では耳年増っていうんだよ。あとボスならマセガキって言う」

 思わず言い返してしまったが、前方の気配が絶対零度まで冷え込んだことを肌で感じて、己の失敗を悟る。本当に失敗したと思う。オーエンの求める特別の方向性を恋愛に定めてしまったのは。だってこんな状態で特別だと告白したら、それはもう、恋愛対象としてになってしまうではないか。
 たしかにあの夜、オーエンを助けに行ったのは彼が特別だったからじゃない。彼と交わした約束を守りたかったからだ。だがカインは、今もあの時のままでいるとは言っていない。いや、この状況でずっと変わらずにいることのほうが、きっと難しい。
 カインは老若男女に好かれるほうではあるが、それでも、こんなにまっすぐに純粋な好意を向けられては、愛着のようなものを抱いてしまうのは仕方ないだろう。対人コミュニケーションが好きだからこそアシストロイドに関心がなかったカインにとって、アシストロイドなのに誰よりもカインとのコミュニケーションを求めてくるオーエンの存在は、これまでの常識を簡単に覆していった。あんなに熱烈にアタックしていたのに、カインのそばにいることよりも外界への好奇心を優先してあっさりいなくなってしまったところと、今日まで連絡ひとつ寄越さなかったところにも、なんだか心の繊細な部分をくすぐられた。幼いころに図鑑で読んだ猫の習性もこういうものではなかっただろうか。なるほど、この駆け引きで人間を魅了してしまうわけだ。
 そう、今のカインにとって、オーエンは特別かもしれない。少なくとも、こんな存在は他にいないという意味では。だが、これが恋愛感情かと言われると困る。大いに困る。カインは人を守る警察官で、倫理観のある大人なのだ。だから今日も、同じ答えを返すしかない。

「もうちょっと時間が経って、それでもおまえの気が変わらなかったら、その時はまた話を聞くよ」
「またそれ。もうちょっとってなんだよ。明確な期限を示せよな」

 オーエンの反論も変わらない。久しぶりに会えたというのに、変わらない言い争いをしたいわけがないのに。もっと、オーエンの旅先での思い出や久しぶりの街の印象や、それからできれば半年以上ぶりに会ったカインに対する感想なんかも聞きたい。オーエンの話したいことを、たくさん聞かせてほしかった。

「……大切にしたいんだよ、おまえのこと」

 零れ出た言葉は、まぎれもなく本音だった。生まれたばかりなのに他者を拒絶する目をしていた、そうなるような仕打ちを受けてきた彼の幼い心を、守ってやりたいと思った。カインがカインである限り、その気持ちは当然のものだ。また言い返されるかと思ったが、オーエンは瞳を見開いてぽかんとして、それから怒りではなく照れから頬を染めて、ずっとまっすぐに見つめていたカインの瞳から少しだけ視線を逸らした。

「ふうん。僕に興味ないっていうなら、君の人生終わらせてやろうと思ったけど。大切にしたいって言われるのは……悪くないかな……」
「……俺もわかってくれて本当に嬉しいよ」

 オーエンは心底嬉しそうに瞳を潤ませて微笑んでいるが、カインにとってはあまり冗談ではない。オーエンがその気になれば、カインの人生を社会的に終わらせることなど朝飯前なのだ。もはや指摘することも忘れていたが、そもそも合鍵を渡したわけでもないのに彼は当たり前のようにこの部屋にいた。背筋を冷や汗が伝う。オーエンのご機嫌を持ち直すことができて、本当に助かった。

「大切。大切かあ……」

 なにはともあれ、噛みしめるように繰り返すオーエンを見ていると、カインの心もあたたかくなる。それから、くすぐったいような照れくさいような、名前を付け難い気持ちにも。
 オーエンは覚えていないけれど、彼に特別という言葉の意味を教えたのはカインだ。カインが教えた言葉とその意味を、最初に出会ったオーエンが大切に抱えたまま記憶をリセットされたから、ヒナの刷り込みのように今のオーエンはカインの特別になろうと奮闘しているのかもしれない、という心配もあった。
 だからカインはオーエンがもっと多くの人間やアシストロイドと出会って、自分の足で見識を広めて、成長してくれることを願っている。オーエンの自由を守りたいから、他者に与えられた形や刷り込みに縛られたまま、誰かを選んでほしくない。またいつかの春の夜、成長したオーエンが今度はどんな色の瞳を向けてくれるのか。カインはその日を心から楽しみにしている。
 そしてもし自由な心で再びカインを選んでくれるのだとしたら、その時は──たとえそれが恋人になることだとしても──オーエンに特別だと伝えたい。
 目下の問題は、永遠を生きるオーエンがその境地に成長するまで、ごく普通の人間で警察官であるカインが元気でいられるか、だろうか。

‐‐‐

 すっかりご機嫌になったオーエンはそれ以上迫ることも怒ることもなく、大人しくカインの寝室までついてきた。思わぬ来訪者とのあれこれで忘れそうになったが、カインはくたくただったし明日もこの街を守る大切な仕事があるのだ。

「おまえは寝なくていいのか?」
「必要ない。写真の整理をしたいし」

 ベッドの中から声をかけても、オーエンはすっかり旅先で撮った写真の整理に夢中になっていて、気のない返事しか返ってこなかった。あんなに執心していたカインに書き置きひとつなく街を出ていくところもそうだが、オーエンのこの気まぐれさはカインには理解し難い。理解し難いし、なんだか少しだけ悔しい。

「明日さ、遅番なんだ。最近できたスイーツカフェに連れていくよ」
「……へえ。君のおごり?」

 だからそう声をかけたのはオーエンの気を惹きたかったからと、せっかく会いに来てくれた彼にちゃんと構ってやりたい気持ちからだった。案の定、スイーツカフェに釣られて視線をこちらに向けたオーエンに満足しながら「ああ、おごるよ」と返す。開店一番にスイーツカフェに連れていったあとは、エアバイクのサイドカーにオーエンを乗せて、街を走りながらこの半年の間の話をしよう。彼に行きたい場所があれば連れていくのもいい。出勤までの時間をふたりで楽しくすごせるのなら、どちらでも。明日は忙しくなりそうだ。けれどたくさんオーエンの笑顔が見られたらいい。それ以上を考えようとしても、カインの意識はすぐに眠りへと落ちていく。「……どれだけ疲れてたの」という呆れたような声が聞こえたけれど、返事をすることはできなかった。

‐‐‐

 翌朝、いや真昼に、カインは飛び起きた。ほとんど確信していたが、念のため時計を見て、今が昼過ぎであることを確認してしまった。就寝前にたしかにセットしたアラームは、なぜか遅番出勤時の起床時刻に変更されている。もちろんいじったのはカインではないから、犯人候補は一人しかいない。

「オーエン!?」

 名前を呼んでから、気付いた。昨夜はベッド横のテーブルとクッションを使っていたオーエンがいない。それどころか、彼の上着もトランクも見当たらなかった。あわててリビングに飛び出しても、そこにもまるで深夜の来訪者など最初からいなかったかのように普段通りの姿があるだけだ。気配すら残さず、オーエンは消えてしまった。

「あ、相変わらず、びっくりするほど報連相のできないやつだな……?」

 まるで自宅で迷子になったかのように途方に暮れながら寝室に戻ると、サイドテーブルにある端末がピピッと電子音を鳴らした。メッセージの着信音だ。もしかして、と思いながら開くと、案の定差出人はオーエンだった。どこかのカフェでパフェやケーキ、ドーナツをテーブルいっぱいに頼んで、それらを幸せそうに頬張っている自撮り写真がついている。スイーツカフェなら連れていくと言ったのに、と呆れていると、写真だけではなく短い文章が添えられていることに気付く。

『ちゃんと寝ること。無理して倒れないこと。元気でいてね』

 まるで親が子どもに宛てたような文面に苦笑してしまう。苦笑しながら、カインは昨夜からのオーエンとのやりとりをひとつずつ思い返していた。深夜になっても帰らないカインを、オーエンはこの部屋でひとり心配していたのだろうか。眠りに落ちる前に聞こえたひとりごとに返事ができていたら、今日は一緒にスイーツカフェに行けただろうか。
 考えてもカインにはわからない。もともと一言もなしに半年以上どこかへいってしまう相手のことなど、わかるわけがない。カインのことを心配する文面も、次に会えるときのことに触れないから今生の別れのようにも読めてしまう。そこまで考えて、あの日もそうだったなと思い出した。この街の秘密を暴いた夜。穏やかな朝焼けのなかで、オーエンはカインや晶ともう会うことはないかもしれないと言っていた。カインたちと待ち合わせをするのは違うとも。少し寂しい気もするが、これが彼の生き方で他者との関わり方なのだろう。

 次に会う約束も、待ち合わせもしないのに、特別にはなりたがって、心配はしてくれる友達。そんな相手がカインの人生にひとりくらいいてもいいかもしれない。

 そんなことを思いながら、オーエンから送られてきた写真を眺めていると、ふと違和感に気付いた。写真の中のオーエンが持っているクレジットカード。テーブルの上のスイーツたちの支払いに使うのだろう。それはいい、それはわかるが、そのカードはどう見ても見覚えがあった。というか、カインのものだ。

「嘘だろ!?」

 真昼のアパートにカインの大声が響く。日中だから隣人も出払っていて、壁を叩かれたりはしなかったけれど、もはやそれどころではない。しんみりしていた気持ちも一瞬で吹き飛ばされて、カインはこのあと出勤時間までクレジットカードを止める手続きと利用先への連絡に奔走することになるのだった。